<2005年5月号>


第10回 平成17年4月14日

太宰府(岩屋城跡・都府楼跡)

参加者: 聖子 節子 真理子 光子 由紀子

前回の太宰府吟行の時は、時間ぎりぎりで電車に乗り込んだが、学習効果ありで、光子さん、由紀子ともに待合室で待つ程の余裕をもっての太宰府行きとなる。博多から乗り込んだ真理子さんと、大野城駅のホームで合流する。改札口で聖子さん、節子さんが手をふっている。

今回もわくわくしながらの筑紫野の吟行である。車の中で今日のスケジュールを聞く。このまま「岩屋城跡」に車を走らせると言う。太宰府天満宮以外に光明禅寺、戒壇院、観世音寺、都府楼跡など多くの史跡があり、俳句会などでは必ずといっていいほど訪れる場所ではなく、はじめて聞く「岩屋城」に「なにがあるところなの?」という素朴な疑問と、観光化されていない地元の人しか知らない穴場的な所かもしれないという期待とが入れ混じる。

車は天満宮の参道横を過ぎ、赤い欄干の橋を渡る。橋のあたりには人家が建て込んでおり、人家の番地を記す標識が薄紫色の鉄板で「連歌屋2丁目3番」などと書かれている。標識を美しいと思ったのは初めてである。だんだんと家は少なくなり、舗装されているが山道に入っていく。いくつものカーブを曲がり、だいぶ高くなったところに看板を見つける。道路脇の路肩に車を停める。ここは大野山=四王寺山(しおうじやま)の中腹という。看板には、大野城、岩屋城の説明があり、ここが登り口になっている。道野辺には桜の樹が多く植えられており、花散る山道だ。登り口近くにはつる日々草が一面に咲き、あけびの花も咲いている。

  

四王寺の山をつらつら花通草      節子

からまりし通草の花の山径を      由紀子

岩屋城へと登っていく。人ひとりしか通れない狭い道だが、凹地になった階段がついていて登りやすい。途中「大野城」への分かれ道がある。足元には花の屑が散り敷き、頭上から春の日差しを受けて桜花がひらひらと舞い散る。なんとも言い難いほど美しく贅沢な気分にしてくれる。

ゆるゆると散る花びらや日の永し    聖子

はらはらと残花の四王寺谷崩れ     真理子

山道の光の中に花一片         光子

7-8分ほど登ると頂上らしき所に着く。ここからは太宰府の町が一望できる。眼下には都府楼跡、天満宮、建設中の国立博物館などが見え、宝満山などの山々がなだらかに町を囲んでいる。一幅の絵のようである。福岡市在住の真理子さんも、太宰府には何度も足を運んだが、ここは初めてだと言う。

  

「岩屋城」の歴史を読むと、もともとこの大野山には七世紀にできた我が国最古の朝鮮式山城の「大野城」があり、西方の水城(みずき)、南方の基肄城(きいじょう)と共に唐・新羅の連合の襲来から「大宰府政庁」を守る役目をしていた。「岩屋城」は大石塁、土塁などが残っているこの大野城跡の一部を利用して戦国時代に築かれたものである。本丸、二の丸、三の丸が残り、私たちが休んだのは、本丸跡である。ここには「嗚呼壮烈岩屋城址」の石碑が建っている。書かれている字の大きさに驚かされる石碑である。豊後の大友氏の城で、その家臣の高橋紹運(じょううん)が守っていたが、1586年九州制覇を目指す島津軍5万の大軍が押し寄せ、城兵わずか763名で、激戦十余日の末、全員玉砕落城した。籠城中は一人の逃亡者も出ず、城主のもとに全員玉砕したことは他に例がなく、戦国武将の鏡として語り継がれているという。

玉砕の岩屋城址囀に        真理子

 

「嗚呼・・・」の石碑を除くと、暖かな春の風が吹き渡る山の中腹から眺める景色は長閑そのものだ。木々が芽吹き、どこからともなく蝶が現れ消えていく。

山城の雲なき空に木々芽吹く     由紀子

そびえ立つ岩屋山城春かすみ     聖子

方形の都府楼はるか風光る      真理子

みはるかす都府楼の跡蝶飛んで    光子

これから山を下り、眼下に広がる都府楼に行くという。登ってきた花の山道を戻る。鳥がどこかで鳴いている。

行くも惜し暮るるも惜しき花の春   聖子

一身に光を受けて花一片       節子

光射す山のかげへと飛ぶ落花     光子

車をUターンさせ、太宰府の町中へと入っていく。広い道路の道沿いに「都府楼」があり、駐車場に車を停めて、そこから歩いていく。広い草原の史跡は、その歴史を知らなければ所々に石のある広っぱに過ぎない。実際岩屋城から見た「都府楼」は草青む方形の史跡だったが、足を踏み入れると、遠足の子供達や幼子をつれた若い親子連れなどで賑わっている。走っている子供たち、ゲーム遊びをしている教師と子供たち、ベビーカーを並べてシートの上で談笑しているお母さんたち、桜の木の下で寝転がっている若者など、春の一日を楽しんでいる人達であふれかえっている。節子さんの誘いで太極拳を二人でやってみる。これだけの人の中では何をやっても目立たない。「都府楼」で太極拳とは絵になる構図だと思うが、まだまだ覚えていない由紀子は、残念ながらすぐにリタイヤする。

 

うららかや太極拳の人ふたり     光子

都府楼を遠足の子等埋めつくし    由紀子

大宰府の森巡る道草若葉       節子

吟行の楽しみの一つに、その歴史を知ることがある。「筑紫野」や「都府楼」に惹かれるのも古代文化がいち早く開けた所だからだ。もともと大宰府が設けられたのは、唐・新羅軍から国を守るためであるが、やがて外交の府、九州の都督府(ととくふ)として発達する。内政はもとより、帰化人の受け入れ、遣唐使の送迎、大陸・半島との交易による異国文化や物資の輸入など、すべての政治が行われるようになる。「遠の朝廷」(とおのみかど)と呼ばれ、文化的には万葉集の「筑紫歌壇」が形成される。大宰帥(長官)の大友旅人、筑前守の山上憶良、小野老などが中心となり、梅花の宴が催されたりしている。

「やすみしし吾が大君の食(お)す国は大和もここも同じとも思ふ」     <大友旅人>

決して誇張ばかりではなく、建物の規模も大きく街も繁栄したであろう。だが一方、京から遠く離れた僻地筑紫からのがれたいという気持ちも詠まれている。

「あをによし奈良の都に咲く花のにおうがごとく今さかりなり」       <小野 老>

「淡雪のほどろほどろ零(ふ)りしけば奈良の都し念(おも)ほゆるかも」  <大友旅人>

京への郷愁である。花につけ、雪につけ、京への思いが胸を灼く。旅人が筑紫に下ったのは726年頃、そこに憶良がいた。「筑紫歌壇」という風流な文化人の集まりがあったとしても、当時京からは、はるけき筑紫なのである。そして901年菅原道真がこの地にやってくる。筑紫歌壇の盛時からずっと後である。以前の都府楼跡は叢におおわれ荒涼としていたらしい。叢と礎石ばかりの廃墟。歴史を考えるとその方が似合っているのかもしれない。今も礎石ばかりで建物などないが、公園として整備されている。今秋には「九州国立博物館」が開館する。

  

吟行のもうひとつの楽しみは食事。近くの日本料理「田惣」を予約しているという。歩いていける距離だが句会などの時間を考えると車の方が都合がよい。春の野の花が咲く道を抜けて行く。少し高めの土塀の上に「田惣」の看板があるが、食事処というより広い庭のある民家のようだ。縁側、欄間、太い梁など、だんだん少なくなっていく日本家屋をそのままに残している。栞を読むと、昭和初期博多人形を商う商家の別荘として建てられた日本家屋を、宮大工がさらに手を加えたとある。堀炬燵のように腰掛けられるテーブルに「点心弁当」が並ぶ。旬の野菜が小奇麗に盛られている。また来たいと思わせるお店に満足、満足。

続いて、いつものように5句出しの句会。「岩屋城」の散りゆく桜の句がだされる。吟行句会の良いところで、今日一日の感動の景色がもう一度再現される。 それぞれに感想を述べ合い句会終了。「花の屑」の句が何句か出句されたが、聖子さんの「花の屑」を美しいものとして捉えることができたという言葉が印象に残る。

谷風に遊ぶ花屑我もまた       真理子

花くずを流さぬほどの小流れに    由紀子

山道のどこまで行っても花の屑    節子

二日市駅まで車で送ってもらい解散。楽しい句会でした。感謝!