吟行記

平成18年12月号


第28回平成18年11月14日(火)

櫓山荘跡・夜宮公園(北九州市 小倉・戸畑)

 今月は皆の都合があわず「あしや句会」の吟行は取りやめ。机上ではなかなか句ができないので、友人を誘って以前から一度は行ってみたいと思っていた「櫓山荘跡」に出かけることにする。
「櫓山荘」(ろざんそう)は、俳人橋本多佳子が夫の豊次郎と大正9年から昭和4年までの9年間住んでいた家。
JR鹿児島線の「九工大前」駅の近くにあるこんもりと樹木の茂った小山にその跡が残っている。
現在は、中井北公園と番所跡緑地保全地区として開放され、平成15年10月には櫓山荘と多佳子・久女の二人の女流俳人を記念して句碑が建てられている。

  

近年の俳句人口増加は目を見張るものがあるが、北九州もあちこちに俳句教室が開かれている。
句会の出席者の多くが女性で占められているが、大正・昭和初期の俳句界では女流俳人は一握りほど。その一人の杉田久女が北九州に住み、多くの名句を生み出してきたことはよく知られた話だが、橋本多佳子が、この北九州の櫓山荘で俳句と出会い、久女に手ほどきを受けたことはあまり知られていないのではないだろうか。
多佳子の夫・橋本豊次郎は、大阪で建築請負業「橋本組」を興し、難波の地下鉄工事や日本紡績の工場建設などで成功した橋本料左衛門の次男。大正6年(1917)に九州出張所を設けた際、アメリカで土木建築を学んだ豊次郎を駐屯させる。
その年29才の豊次郎と18才の多佳子は結婚し、3年後の大正9年北九州小倉に居を構える。それが「櫓山荘」で、豊次郎が英国の中産階級の家庭をイメージして設計したものだ。幕末に黒船監視の見張り番所が置かれていた櫓山(やぐらやま)に建てられた櫓山荘のすぐ下には響灘がひろがってたいという。

  
櫓山荘              多佳子・三女画 「櫓山全景」

ユーカリの並木や小石を敷きつめた道、回遊式の庭園のある和洋折衷の三階建ての瀟洒な建物。
テニスコートや野外ステージ、ステンドグラスの広い窓、バルコニー。大正時代の小倉にこのような山荘があったとは驚きだ。
夫婦の垢抜けたセンスが文化人や知名人を引き付けて、櫓山荘が当時の小倉の文化サロンになったという。他に戸畑では松本健次郎宅・現西日本工業倶楽部、八幡では製鐵の公餘クラブ・現高見倶楽部などが文化サロンとなる。
しかし「櫓山荘」は、昭和4年橋本夫婦が父・料左衛門の死去に伴い大阪に転居した後10年間別荘として使われたようだが、豊次郎も昭和12年には亡くなり、昭和14年橋本家から手離されている。

多佳子と俳句との出会いは、大正11年西海道俳吟旅行で小倉を訪れた虚子を迎えての句会。久女をはじめ地元の俳人たちが相談して「櫓山荘」での句会が実現する。
そこでの兼題は「潮干狩り」「落椿」。櫓山荘には3月のまだ少し寒い潮風が吹きつけ、暖炉にはもてなしの火がたかれている。暖炉の上の花瓶に活けられた深紅の一輪の椿が絨毯にこぼれる。それを23才の多佳子がそっとひろって暖炉に投げいれる。虚子はその瞬間をとらえて詠む。

落椿投げて暖炉の火の上に    虚子

美しい一句が生れ、感動した多佳子が俳句に興味を示す。その日初対面だった久女に、豊次郎の勧めで多佳子は俳句の手ほどきを受けるようになる。

       
杉田 久女             橋本 多佳子

裏門の石段しづむ秋の潮       多佳子

窓の海今日も荒れゐる暖炉かな  多佳子


 早朝よりの雨が止み、少し薄日が射し始めたJR鹿児島線の「九工大前」駅よりタクシーに乗り、狭い路地を抜けて公園前で降りる。公園というより木々に囲まれた広場で、一番奥に「櫓山荘跡」と書かれた句碑がぽつんと建っている。句碑の前には茶色の石が平面的に敷き詰められ、そこに「玄関」「応接室」「台所」などと書かれている。小山に上る石段や野外ステージ跡の石段が当時を偲ばせるが、白い手すりは、明らかに最近後付けされたように新しい。小山から見る海は遠くにあり、北九州の工場地帯が見えるばかりだ。

すぐ横を走る199号線を何度通ったことか。狭くこんもりとした藪のような所が「櫓山荘跡」だとは夢にも思わなかった。薄暗い小山に佇むと、「夏草や兵どもが夢の跡」の句が浮かんでくる。ヒヨドリやカラスの鳴く声を後ろに聞きながら石段を下りると、尉鶲が姿を現す。所々に咲く石蕗の花に何かホッとする。碑があるだけで何もない所とは聞いていたものの、碑と名残りの石段だけの広場は、冬雲の空には寂しい。

   
回遊式庭園への石段               野外ステージ跡

中井北公園を後にし、同じ頃戸畑の文化サロンだった「西日本工業倶楽部」の近くにある「夜宮公園」へと行く。明治学園前でタクシーを下り、湧き水のある渓谷へと下りていく。節子さん、温子さんに連れてきてもらったことを思い出す。
今年の紅葉は遅く、楓はまだまだ緑色で、菖蒲田の葉も少し枯れてはいるが青々としている。所々わずかに色づきはじめている木々が揺れる。菖蒲田を前にして東屋で休むと、木の実がころころと屋根伝いに落ちてくる。時折風が強く吹き、その度に木の葉が舞う。公園の向こうに見える美味しい珈琲店はまだ健在だ。時雨雲は去り、やわらかい冬日の公園は犬の散歩する人や買い物帰りの人が通り抜けていく。

   
夜宮公園の渓谷                夜宮公園菖蒲田

 「櫓山荘」「夜宮公園」の吟行はいつものような吟行句会ではなかったが、この吟行を通して女流俳人の先駆者ともいえる多佳子の俳句の出発地点が東京でも大阪でもなく、この北九州だったことを知り、また「文化不毛の地」といわれてきた北九州にもいくつか文化サロンがあり、多くの文化人が集まっていたことを知る。

櫓山荘跡の石碑や小鳥来る     由紀子

時折の風時折に降る紅葉      由紀子

冬めける珈琲店に入ろうか     由紀子

参考 :橋本多佳子は、大阪帝塚山に転居した昭和4年「ホトトギス」400号記念俳句大会が大阪であり、出席した久女によって山口誓子に紹介される。
    その後昭和10年1月より誓子に師事。「ホトトギス」を離脱。昭和11年久女「ホトトギス」除籍。