吟行記

平成19年6月号】


第34回平成19年5月11日(金曜日)

 参加者 節子 光子 由紀子

旧伊藤伝右衛門邸・嘉穂劇場 (飯塚市)

毎月の吟行地を誰が決めてもいいのだが、毎日仕事で忙しくしている人を外すと自然と役割が決まってくる。役得というほどでもないが、吟行地は自分の行きたい所を優先する。テレビや新聞のニュースを見ていると、各地の行事や見頃の花などの映像や記事が載っている。今月の吟行日に行ってみようとか、来年はここに行こうとか、吟行地情報のアンテナを立てている。今回は今年の4月28日から一般公開されている「筑豊の石炭王・伊藤伝右衛門旧邸」。
ゴールデンウィークということもあって、旧邸の見学者で賑わっている様子がテレビに何度も映し出されている。建物は当時の贅を尽くしたものらしく是非見たいものだと今月の吟行地に決める。旧邸のある飯塚市は、光子・由紀子の住む北九州市と節子さんの住む大野城市と位置的に三角形になるので現地集合。

5月11日折尾駅からJR筑豊本線(福北ゆたか線)に乗り、節子さんは筑豊本線(原田線)に乗って新飯塚駅で合流予定。飯塚経由博多終点の「福北ゆたか線」に乗ることは今までなかったので、ちょっとした旅行気分で車窓の景色を楽しむ。遠賀川を渡って中間や鞍手の風景を眺めていた光子さんの一言。「何だか我が家に近い。」そういえば光子さんの家から飯塚に直接車で行けば30分くらいかもしれない。車や電車を乗り継いで2時間弱かけて行くとはと笑い飛ばしながら新飯塚駅に着く。「原田線」に乗ってきた節子さんも山の中を抜ける景色はよかったらしい。

切り離す列車三両夏の草     節子

山の名を駅の名にして踊子草  節子

駅からバスセンターまで行く途中、商店街の店の前で水打ちしている人に道を尋ねると伝右衛門邸まで歩いて20分くらいという。バスの待ち時間など考えるとこのまま歩く方がいい。商店街のシャッターは半分くらい閉まったままであるが、ゴミの少ない小奇麗な通りだ。
飯塚市役所や嘉穂東高校を通り過ぎると土手と橋が見える。遠賀川だ。いくつもの川が飯塚で合流し全長約60キロの一級河川として響灘へと流れている。橋を渡った先に旧邸があるという。小さな案内板の矢印に沿って行くと町角に案内人が立っていて教えてくれる。大きな長屋門の構えはさすがだ。四つの居住棟と三つの土蔵を持つ近代和風住宅と緑豊かな庭に見物人が次々に入っていく。屋敷内は撮影禁止ということで、案内人の説明に聞き入る。応接室はマントルピース、ダイヤ模様のステンドグラスなど格調高い英国風な造り、書斎の布壁は帯を解いた絹の繊維を塗り込めていたり、芭蕉布の襖など、和洋折衷の建物の材料から調度品にいたるまで説明が付くほど当時の贅を尽くしたものだ。建物の中央部分の廊下に人の列ができている。二階の白蓮の部屋を見る列だという。狭い階段を昇り、見学した後はまたこの階段を下りるために人数制限している。20−30分待っただろうか。待っただけあって、ここの女主人でもある白蓮の部屋は六畳と十畳の広さで、庭を眺めるのには一番良い所だ。茶室風な設えはこれまたどこをとってもさりげない贅沢が施されている。この屋敷は昭和38年伊藤家から離れ、現在飯塚市有形文化財として保存されている。旧邸の長屋門は白蓮のために造られた博多の別邸「あかがね御殿」の門で、昭和2年別邸が焼失し、残った門を移築したものと説明書きされている。

  

緑立つ石炭王の館とか   由紀子

夏館案内の女声低く      節子

伊藤伝右衛門は苦労の末に石炭事業で成功し、その巨万の富を現県立嘉穂東高校の設立や伊藤育英会などの教育文化事業に注ぎ、また嘉穂銀行や十七銀行(後の福岡銀行)の取締役として地元の産業・経済の発展に尽力し、衆議院議員になってからは遠賀川の改修工事を実現するなど地元の人々から慕われたという。他に麻生・貝島・安川など石炭王として大きな功績を地元に残した人物もいるが、伊藤伝右衛門の名をさらに世間に知らしめたのは歌人・柳原Y子(白蓮)との再婚と離婚だろう。苦楽を共にした妻ハルを亡くした後、再婚の話が持ち上がったのは華族の白蓮(大正天皇の従兄妹)27歳。炭鉱夫から一代で財をなした52歳の伝右衛門との不釣合いな結婚は、当時「金で買われた結婚」と噂され、「金襴緞子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くのだろう」と世間は歌って同情したという。(この歌の実際のモデルではなさそうだが)白蓮は最初の結婚に失敗し、伝右衛門との飯塚での再出発に賭けていたようだが、年令の差、育ちの違いなどの溝を埋めることができず、妻妾同居の家で満たされない生活を送る。この間短歌に打ち込み、中央歌壇に認められ「筑紫の女王」と呼ばれるほどになる。屋敷の掛け軸に書かれている白蓮の歌二句。

  

あきの風 こよひのほそき 月かけも 愁とならで 君にふけかし

「花とはな うすむらさきとくれないと うなつきあふは 何のこころぞ

心の隙間を埋められない白蓮の前に現れたのが、7才年下の帝大生・宮崎龍介。白蓮はすべてを捨てて龍介の許に走る。大正デモクラシーを熱く語る青年に心惹かれ、夫には絶縁状を送りつける。それも新聞に公開するという前代未聞のことをやってのける。姦通罪があった時代ならばこそであるが、新聞は事件の報道に明け暮れたという。絶縁状の新聞公開には、デモクラシーの理論的指導者のある東大教授の率いる東大新人会の策謀があったというが、世間を騒がした「白蓮事件」に伝右衛門は冷静に事態の収拾をする。姦通罪で告発などせず離婚が成立。白蓮は貧しいながらも81才で亡くなるまで幸せな生活を送ったという。その絶縁状が邸内の「白蓮館」に展示されている。巻紙に書かれた内容は激しいものだが、美しい文字は白蓮の容姿と重なり、ひとつの作品のように見える。

  

白蓮の絶縁状や鉄線花    光子

絶縁状美しき文字蓮の花   節子

「絶縁状は美しい文字で書かねばならない。」というのが三人の感想。達筆であればこそ作品であり、同情も引くような気がする。絶縁状のコピーが20円で売られている。ワープロで打たれた文字には味がないが、取り合えず購入。実際書かれた内容と新聞に公開された内容が載っていて若干違う。

バスに乗って飯塚駅方面へ行き、昼食を済ませる。次の吟行場所の「嘉穂劇場」まで歩いていく。田舎の飲み屋街のような通りの奥に「のぼり」と「立て看板」がある。これが「嘉穂劇場」だ。公演がない時は見学のみできるというので入場料を払って中に入る。客席や舞台の隅々まで見て回れるのが嬉しい。天井は高く、柱のない客席の端々に座布団が積まれている。舞台に上がれば廻り舞台になっていて、舞台の下へ降りる階段がある。奈落への階段である。ここまで見せてもらえるとは思っていなかったので感激。奈落から上り階段までの通路には、ここで公演した春日八郎や美空ひばりなど多くのスターのポスターが貼っている。木材を多用し、灯りの付いた舞台下は木の匂いがする。2003年7月の水害で壊滅的な被害を受け、なんとか劇場をまた復興させようと津川雅彦・中村玉緒・西田敏行などが支援に駆けつけたことは記憶に新しいが、この劇場の中に入ってみて守っていきたい気持ちが解る。2004年9月に再び劇場として蘇る。二階からの気持ちのよい眺めに、ここで句会をしようということになる。あまりの気持ちよさに昼寝をした人もいるが・・・。新飯塚駅にて解散。

  

劇場の奈落より出て若葉風   由紀子

劇場の降りる奈落も夏に入る  節子

芝居小屋席のいろはに若葉風  光子

旅先の芝居小屋にて昼寝かな  光子