吟行記
【平成22年6月号】 
 
第70回 平成22年5月11日(火) 
参加者 佳与子 節子 聖子 光子 真理子 由紀子 
 
 火野葦平旧居(河伯洞)・若戸渡船 (北九州市若松区・戸畑区)
 
久しぶりの全員集合の吟行。5月11日折尾駅に集合し、10時23分折尾発若松行きの筑豊本線若松線に乗り換える。何年か後には取り壊される予定の折尾駅は立体交差の駅舎で、現在よく利用されている鹿児島本線は二階、折尾と若松を結ぶ筑豊線が改札口前から乗降車するようになっている。駅が作られた石炭全盛時代の名残である。階段を下りて若松行きの停まっている電車に乗り込む。穏やかな天気に恵まれ、車窓より皿倉山や沿線の住宅や工場の景色を眺めながら20分のローカル線の旅を楽しむ。 
 
  
 
乗り換えの駅はもうすぐ桐の花   節子

石炭を運びしレール草茂る      節子 
 
若松駅前の欅若葉は日差しを受けて涼しげな景をなしている。吟行予定の若松が誇る芥川作家・火野葦平旧居の「河伯洞」へ向う。「河伯洞」は駅前から高塔山方面へ数分歩いた所にあるが、周辺は昔ながらの狭い路地に住宅が連なっているので、ちょっと足を踏みいれてみる。軒先にゼラニュウムや大輪のバラなどの鉢、、塀には珍しい「キングサリ」のような花が覆いかぶさるように咲いている。この路地あの路地で何か発見がありそうで、なかなか目的地に着かない。
 
    
 
少し火野葦平のことを書きとめておく。葦平は石炭の荷役請負業「玉井組」の長男として生まれ、十代から文学に傾倒し、早稲田大学時代には同人誌で活躍するが中退。父親の家業を助け労働運動に没頭し、その頃共産党検挙のあおりを喰って逮捕もされている。だがこの検挙をきっかけに再び文学の道を歩きはじめている。日中戦争のために応召され、昭和13年出征中に「糞尿譚」で第6回芥川賞を受賞し、軍報道部時代に書いた「麦と兵隊」など兵隊三部作でベストセラー作家となる。
「河伯洞」は父親の玉井金五郎が葦平のためにとその印税で建てた家である。戦後この家で「花と龍」など数多くの作品を生み出し、多くの友人や文学仲間を招いている。しかし昭和35年1月二階の書斎で自ら命を絶っている。享年53才。
 
   
   
 
今年は葦平没後50年とかで河伯洞の入口には旗が立てられている。平成8年河伯洞は市に寄贈され、平成11年より葦平の三男夫婦が管理し、一般に公開されている。河伯洞とは河童の棲む家という意味で、葦平がこよなく河童を好んだことから名付けられたらしい。中に入るとそれがよく分かる。襖にも額にも河童の絵が溢れている。案内してくれる奥様は、多くの見学者に葦平のことを知ってもらおうと、丁寧かつ早口でよどみなく説明してくれる。広い廊下、庭、床柱、欄間、襖など今ではなかなか手に入らない贅沢な材料を使い、また台所にはあの当時には珍しい冷蔵庫が置いている。
楽しそうな新年会の仲間との写真、友人からの手紙や自ら描いた絵などを見ていると、何故自ら命をと思ってしまうが、戦争を鼓舞した作品で人気作家となった現実と戦争で多くの兵隊が命を落とした現実との狭間での葛藤は他人の知り得ない闇となって奥底にいつもあったのだろう。 
 
  
 
二階の書斎の机にはバラが飾られ、少し開かれた裏窓から高塔山の若葉が見える。駅近くにはマンションが建ち並び、当時と景色が変わったであろうが、葦平の残したものがぎっしりとつまった旧居で、黒板に残された文字や箪笥に掛けられた黒羽織などを見ていると、ひょっこり葦平が出てきそうである。ちょうど昼時でパン屋が配達に来ている。管理人さん用の配達だが、誰でも購入してもよいとかで、メロンパンなど買って部屋のテーブルで食べる。お茶まで出していただき恐縮至極。 
 
  
 
葦平の町でありけりバラの花     真理子

葦平の机にバラとラムネ瓶      真理子

夏の風葦平旧居吹き抜けて       節子

葦平の高塔山や若葉風          聖子

若葉風パン屋来てゐる葦平居    由紀子 
 

 
河伯堂からまた路地を抜け商店街を通る。いつ出来たのか、レトロ調な手押しポンプがいくつも設置されている。
何度も押してみると水が出る。飾りだけではないようだ。昔栄えた所はどこもシャッター通りになり寂れているが、昔の活気は取り戻せないもののまだ少し元気が残っているようだ。
蕎麦屋「藪」にて昼食。ネットで探しておいた蕎麦屋とは違うが、地元の人に「蕎麦屋は?」と聞いて教えてもらった店だけに次から次にお客が入ってくる。若者、サラリーマン、労働者、家族連れなどで満席に近い。
店を出て海岸通りへ向う。「ごんぞう小屋」を見学し、近くに停泊している巡視艇をベンチに座って眺める。若戸大橋と対岸の戸畑地区の工場やマンション、その向こうに見える皿倉山はいつも見慣れた景色ながら、山と海に恵まれた北九州の良き一面を見る思いがする。目の前の洞海湾をタンカーなど大小の船が通り過ぎる。 
 
   
 
ハローワークなんじゃもんじゃのバス通り 節子

初夏やベンチのどれも海へ向き      佳与子

煤けたるビル窓のなりベゴニアに     真理子

石炭で栄へし港つばくらめ          真理子

ゆく船の吃水線高き夏霞            光子

聳え立つ朱の大橋の卯波かな        聖子

鉄壁のごときタンカー卯波切る      真理子 
 
この辺りの観光のシンボル的な建物「旧古河鉱業若松ビル」は火曜日で休館。隣の「石炭会館」の一階は高級クロワッサンの店が入り、横の青蔦の小さな建物には雑貨店が入っている。若松のレトロな町並み作りは、門司とは比べ物にはならないが、そこそこに成功しているのではないだろうか。
若戸渡船に乗り込み対岸の戸畑へ向う。乗船時間3分の渡船は自転車や乳母車なども乗る生活船。車やバスで大橋を渡ることのほうが多いが、生活の匂いのする渡船が現役で往来している北九州も捨てたもんじゃないと思う。 
 
  
 
ご乗船地なる碑花ポピー        佳与子
 
戸畑の渡し場の近くの恵比須神社に寄る。隣に「御乗船地碑」の案内板。1900年10月、当時の皇太子殿下(後の大正天皇)が、小倉十二師団の演習をご覧の後、船で八幡方面を視察された時の「乗船地」を記念して建てられた碑とある。ゆっくり歩くと思いがけない発見がある。戸畑駅の裏から表に出る通路を抜けて、近くの「ウェルとばた」の休憩所で句会。帰りに京都行きの切符を購入して解散。
 
  
 
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