吟行記
【平成22年12月号】 
 
第76回吟行記 【特別編】
 
郷土の女性俳人「竹下しづの女」
 
短夜や乳(ち)ぜり泣く子を須可捨焉乎(すてっちまをか)  しづの女
 
     
 
大正九年の「ホトトギス」八月号で雑詠巻頭に選ばれた句である。作者は福岡県京都郡稗田村、今の行橋市に生まれ育った「竹下しづの女」。彼女は杉田久女より三年早い明治二十年生まれ。大正八年の冬、32歳で吉岡禅寺洞の指導で俳句を始め、翌年には、「ホトトギス」の巻頭をとったのである。彗星のように躍り出て、俳句界に衝撃を与えたこの句は賛否両論で、「すてっちまをか」とは何事かと、また漢文の知識をひけらかして生意気だ等々の非難も受けるが、「すてっちまをか」の叫びは、それまでの俳句にない強烈な表現として虚子の目にとまった。 
 
「竹下しづの女」の本名は静廼(しづの)。行橋の庄屋の跡取り娘として育ち、福岡女子師範学校を卒業、小倉師範学校助教諭を務める。25歳に福岡農学校教諭の水口伴蔵を婿養子に迎え結婚。俳句を始めたのは結婚後、俳誌「天の川」を創刊したばかりの吉岡禅寺洞と出会ってからである。「天の川」は新興俳句の系譜下に入るのだが、しづの女が係わっていた頃はまだ「ホトトギス」の傘下の俳誌だったらしい。
しづの女が巻頭をとってから、「短夜や」を詠まれた先生はこちらですかと次々に見知らぬ人が訪れたらしく、その煩わしさもあってか、「俳句の主観、及び季の問題に懐疑を抱く」と言って作句を中断する。再開したのは八年後の昭和三年で、福岡に来た虚子と会ってからのことだったという。ホトトギス同人になる。 
 
          
 
それにしても「須可捨焉乎」(すてっちまをか)とは大胆な表現である。当時の授乳は母乳のみで、母親、妻、勉強で疲れ果てた体に、乳不足で泣きやまない赤子を抱いている姿が浮かぶ。だがこの句の漢文表現に大きな意味がある。「須可捨焉乎」には「捨てるよ、否、捨てはしない」という反語の意味が含まれているからこそ、母として言える表現で、泣く赤子をしっかり抱く母親の愛情が結晶した句として巻頭をとったのだ。 
昭和八年一月夫が急逝する。しづの女46歳。子供の養育のため福岡県立図書館の出納手として勤務することになる。女性が社会で働くことが少ないこの時代に、男性とともに組織の中で仕事をする女性を「職業婦人」と呼んでいたが、職業婦人として俳句を作った最初の女性といえる。
 
汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍す 
 
本来、女丈夫で単刀直入、さっぱりとした気性のしづの女には同じ職場のぐずぐずした男たちに腹を立てることもあったのだろう。俳句に関しては昭和十二年、「高等学校俳句連盟」(後の学生俳句連盟)を結成。長男の吉信が俳句にかかわったこともあってか、学生を対象にした俳句の場つくりに尽力をつくし、「高等学校俳句連盟」の機関紙「成層圏」の指導にあたっている。指導協力者として中村草田男を推薦、草田男は東京での「成層圏」句会の指導に当るという画期的なことを実践している。この中の学生会員に金子兜太がいたというから歴史を感じる。この「成層圏」は昭和十六年に戦時下の統制で廃刊となっている。

昭和十五年に句集「颯」(はやて)を刊行。この句集に寄せた虚子の序句が 
 
女手の雄々しき名なり矢筈草(やはずそう) 虚子 
 
            
 
俳句に関する評論を多く書き残し、当時の「ホトトギス」の女性俳人で評論という体系をもった文章を成したのはしづの女がはじめてと言われている。俳句を志すものを育てていこうとする行動力と俳句を理知的に把握しようとする理論家としての彼女の功績はもっと評価されてもよいくらいだ。
女丈夫と言われる彼女も、戦争という「ただならぬ世」を不安に思いながら送り出す母親の心情を句に残している。 
 
母の名を保護者に負ひて卒業す

ただならぬ世に待たれ居て卒業す
 
 
昭和十九年戦争に送り出したばかりの長男は結核にかかって二十年に病没。31歳。
 
米提げて戻る独りの天の川

天に牽牛地に女居て糧(かて)を買ふ 
 
        
 
農地改革の時、行橋で五反歩の田に田小屋をたてて米を作り、子供達に運び、母親を看病し、九大俳句会の指導もする。長男の死や戦後の混乱の中で心労を重ね、昭和二十六年、64歳の生涯を終える。

北九州の女性俳人と言えば「杉田久女」や櫓山荘の「橋本多佳子」がよく取り上げられるが、北九州市から車ですぐの行橋市で活躍し、久女らに劣らず強力な個性を発揮した「竹下しづの女」を忘れてはいけない。
昭和五十四年行橋市に建てられた句碑は代表作とされる。
 
緑陰や矢を獲ては鳴る白き的  (昭和十年作:ホトトギス巻頭句)) 
 
参考資料:「俳句あるふぁ」「人間講座 宇多喜代子 女性俳人の系譜」「ふるさと北九州 櫓山荘をめぐる女たち」
 
 2010Top