吟行記
【平成23年2月号】 
 
第78回吟行記
北九州の俳人・穴井太(1926-97) 
 
戸畑区の新日鐵沢見社宅の近くに天籟寺という地名がある。天籟寺川、天籟寺通り、天籟寺小学校などその名前が使われている。一説では平安時代に「天籟寺」という寺があったことに由来すると書かれたいるが、現在ある曹洞宗の「天籟寺」との関係は分からない。
この名前に興味を持ったのは、この地から発行されている「天籟通信」という俳誌があるからである。「天籟」とは「風が物にあたって鳴る音」「すぐれたできばえの詩歌のたとえ」という意味。この地に住み、この地から発信しつづけた俳人、穴井太の句碑が近くの夜宮公園前に建立されている。 
 
 
夕空の雲のお化けへはないちもんめ 
 
現代俳句の横山白虹の「自鳴鐘」に入会し、昭和31年「俳句の新しい可能性探求を標榜」するとして「未来派」を創刊、昭和40年に俳誌「天籟通信」を発行し続ける穴井太は、俳句誌主宰としても、また中学教師としても多くの人を育てている。
 
ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠
 
          
 
穴井の最後の勤務地となった戸畑中学校(現・飛幡中学校)に昭和60年に句碑が建立されている。彼の俳句エッセイ集「吉良常の孤独」に「北九州の街で育ったぼくの社会教育の場は原っぱであった。・・・玄海育ちで、かつ原っぱ育ちなのである。・・・」と書かれている。
夕方親が呼びに来るまで遊んだ原っぱ、外遊びに夢中の子供達ばかりの時代、「ALWAYS三丁目」の時代である。
句碑のような純粋無垢な句を作った人物はどんな人なのだろうと興味がわく 
 
穴井は沢見小学校、戸畑工業高校に進み、神戸製鋼に勤める。終戦後、故郷大分飯田に帰り炭を焼く期間もあるが、中央大学に入学し、卒業後の27歳で戸畑市内の中学教師となる。 
 
   
 
あおい狐となりぼうぼうと魚焼く

地へ深くみどりの昆虫おりてゆく

曲がり角で夕陽と別れ明日は白紙

還らざる者らあつまり夕空焚く 
 
俳句に遺す思いについて、「・・・日常にどっぷり浸っていて、ある時に日常を越える一瞬を言い止めよう、その言い止め得た姿こそ、私にとっての真の表現たり得るのである」と記されている。
写生句とは違い、「日常を超える一瞬」を俳句にすることは、他者からは解りづらい面もあるが、真似のできない個性的な世界を作る。
高校時代から同級生と回覧新聞や同人誌作りに熱中した文学青年は、多くの人から慕われて、平成9年71歳の亡くなるまで俳句を作り続けた。 
 
この世から少し留守して梅を見に 
 
参考文献:「海峡の風」轟 良子著 
 
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