(平成16年11月〜12月掲載)
<平成16年12月掲載>
御空より発止と鵙や菊日和 (川端茅舎)
「発止と鵙や」が茅舎の本領です。発止は、堅い物どうしが勢いよく打ちあたるさまをいう言葉です。この句では、鵙の鋭い叫び声の比喩として使っています。菊薫る穏やかな日和に、突然鵙のはげしい声が聞こえたのです。菊日和だからいっそう鋭く感じられたのでしょう。静中の動。発止の一語がなかったら平凡な句に終るところでした。
<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 藤田 湘子> 評
去年今年貫く棒の如きもの (高浜虚子)
昭和25年12月25日、新年放送用に詠まれた句。年去ってまた新しい年が来た。だが新年になったと言っても、格別の改まった喜びがあるわけでもない。生活も何も変わらない。去年と今年の間に、ただ棒のように変わりなく過ぎてゆく時間があっただけだ、という坦々とした虚子の老いの感慨。だが「貫く棒の如きもの」という大胆な表現には、また人間に戦争や波瀾があろうが、時間はそのように過ぎてゆくものだ、という虚子の人生観もうかがえる。虚子一代の傑作といえる。
<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 森 澄雄> 評
<平成16年11月掲載>
蔓踏んで一山の露動きけり (原 石鼎)
山中をたどると、道にまで蔓がはびこっていることがあります。この蔓を踏んだ刹那、どっと頭から露をかぶったものと思われます。「一山の露」のおそれを感じたのです。
ことに未知の山などに入つてゆくとき、森林のすがたなどから、山の神秘を知らされます「一山の露動く」という感覚には、作者の感じやすい特質がよくあらわれています。高浜虚子によると、石鼎はつねに昂つた感情をいだいて俳句を作っているので、一般には誇張となってしまう表現も石鼎にあつては特色となる、という意味の評がありますが、この句などもその一つで、「山の色釣り上げし鮎に動くかな」「高々と蝶越ゆる谷の深さかな」等、いくっもあげることができます。
<出典:NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 原 裕 >評
彼一語我一語秋深みかも (高浜 虚子)
昭和二十五年作。親しい友との静かな対座、多く語らずとも深く心は通っている。時にぽつりと語る彼の一語に、自分もぽっりと短く答える。再び沈黙が支配する。ややあって彼が一語を発すると、我も一語をもって答える。そうした対座に、秋の深まりをしみじみと感じているのです。「かも」のやわらかな表現が、深まった秋の静寂を宿し、余情が尾を引いています。「かな」では、そうはいかないでしょう。季語・秋深し(秋)
<出典:NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 森 澄雄> 評
今生の今が倖せ衣被 (鈴木 真砂女)
真砂女80歳の句。
「羅や人悲します恋をして」と共に真砂女の代表的な句です。
去年96歳で亡くなった彼女のドラマチックな人生について、今更語ることもないでしょうが、何も知らずに彼女の句を読み、そしてそのあと彼女がどのような人生を生きてきたのかを知って読むと、句の一つ一つが深く心に沁みてきます。
平明な言葉で「本当のこと」を語る真砂女の句には惹きつけてやまないものがあります。
<私の好きな女性俳人の句>