【平成19年1月〜3月掲載】
<H19年3月掲載>
海女とても陸(くが)こそよけれ桃の花 (高浜虚子)
昭和十四年、志摩で海女の作業を見ての作。いきいきと海中に潜ってはあわびなどを採っている海女。海は海女にとって生きる場であり、健康でいきいきと作業をしているが、その海女とても、陸の方がいいだろう、といっているのです。しかもいま陸は、うらうらと春を告げる桃の花ざかり。健康な海女と海、それに映発してこの挑の花が実にいい。試みに他の花を置いてみるがいい。老虚子の情のこもった明るく美しい一句です。季語・桃の花(春)
<出典:NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 森 澄雄 評>
<H19年2月掲載>
山焼や跳ね去る鹿の尻白く (大川畑光詳)
『尾越の炎』 (平一八)所収。句集題名を「遠山火尾越の炎立てにけり」から採ったと「あとがき」に書いているが、九州の鹿児島に生まれ、今も同県に住んでいる。題名の句も「毎年の阿蘇通いから生まれた句」だという。毎年きまった土地に通うのは、たぶん俳句の材料を見つけるためではないかと思うが、阿蘇に通って大きな風景に出会う喜びは、十分労に値するぜいたくだろう。「日輪を昏めて阿蘇の牧を焼く」
<出典: 朝日新聞 折々のうた 大岡 信 評>
鎌倉を驚かしたる余寒あり (高浜 虚子)
大正三年作。こういう淡々と叙した欲のない句は、説明の言葉がない。もちろん寒波は関東一円を襲ったのであるが、あたかも暖かい湘南の地鎌倉に落ちてでもできたように、鎌倉人を驚かしたといっているのだ。鎌倉の位置、こじんまりとまとまった大きさ、その三方に山を背負った地形、住民の生態などまで、すべてこの句に奉仕する。試みに東京とでも静岡とでも置いてみて、句になるかを考えてみるとよい。達人の句はおのずからにしてすべての条件にかなっているものなのであろう。
<出典: 現代俳句 山本健吉著 角川文庫>
<H19年1月掲載>
寒雀身を細うして闘ヘリ (前田 普羅)
小さな雀だけを描きましても、大きな俳句となっているのは、作者の思いが作品にこめられているからです。日常見なれています雀から今まで知らなかった一面を発見して作っております。鳥類の怒りの表わし方は、肩羽の一方を張りあげてそるようにし身がまえますが、その状態を身を細くして、と見ているのです。日ごろおく病の雀も、争いとなりますと、全身で相手にはげしく立ちむかいます。しかも寒中でありますから、あたりは枯れ果ててきびしさがあります。その中で、雀の闘魂を作者はじっと見人っており、あらためて野生のあらあらしさを雀から感じとったのです。そして、自分自身のことに思いをめぐらせたのではないでしょうか。こんな小さな雀にも、これほど激しい闘魂が秘められていたのかと。そして、人生への思いにつながっていくのです。季語は寒雀(冬)
<出典:NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 福田 甲子雄 評>