【平成19年4〜6月掲載】


<平成19年6月掲載>

五月雨や上野の山も見あきたり  (正岡子規)

 正岡子規の病臥する子規庵は、上野公園の北の根岸にあった。江戸時代からの静かな住宅区域である。その庭から上野の山が遠望できた。この句は明治三十四年の作である。三十四年といえば彼の死の前年である。病は結核なのだが、重くなるばかりであった。唯一の楽しみは食べることなのであるが、歯が悪くなって、固いものは食べられないようになっていた。しかし、精神力はいささかの衰えもなく、一月から、新聞「日本」に「墨汁一滴」の連載を始めている。子規庵の南の庭には病人の眼を楽しませるように、いろいろな植物が植えてあった。柵の向こうには上野の山が見えた。山といっても小高い丘に過ぎないのだが、江戸時代から山と呼んでいたのである。その上野の山も雨にけぶっている。山を見ることは寝たきりの病人にとって気晴らしなのであるが、それも見あきた。病人の無聊感は深くなるばかりである。そして、梅雨も深くなるばかりだ。

<出典:秀句観賞十二ヶ月 草間 時彦 評>


<平成19年5月掲載>

夏草に這ひ上りたる捨蚕(すてご)かな  (村上 鬼城)

 蚕は年四回飼育できますが、何といっても春蚕夏蚕が盛んです。「捨蚕」は春の季語ですから、この句は「夏草」とで季重りということになりますがここでは「捨蚕」を主題として考えてよいでしょう。蚕の中でも発育の悪いものは捨てられてしまいますが、そんな蚕の中でもなおたくましいものが、夏草にすがって這い上ろうとしている懸命な姿に、作者のあたたかな眼がそそがれています。作者鬼城は上州高崎の人、幼時から耳を患い、ものが聞えない状態にまでなったので志を断念し、俳句の道に入りました。そして虚子によってその才能を見出されましたが、終生貧しさと病苦と闘って地方の代書人としての一生を終りました。七十四歳でした。その作品はものの生命をみつめた生の哀愁がきざみこまれていて、後の時代に起った「人間探求派」の作家たちにつよい影響を与えた人であります。

<出典NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 能村 登四郎 評>


<平成19年4月掲載>

風に落つ楊貴妃桜房のまヽ  (杉田久女) 

昭和7年は久女のもっとも昂揚していた時期で、五号で廃刊にはなりましたが、「花衣」も創刊し「ホトトギス」の同人にも推されました。楊貴妃桜は紅色の濃い大きな花房の艶麗な八重桜で、玄宗皇帝の愛した美人の誉高い楊貴妃に因んで名づけられた桜です。この桜の咲く頃の風は、時として突風のようにはげしく、その風に群がり咲いていた桜が花房のまま落ちた時の情景ですが、地に落ちてもなおみずみずしい豊満な桜の生気が作者の心を捉えたのです。虚子が久女の作風を「清艶高華」と評したのが諾(うべな)える作品です。 

参考・・「公餘倶楽部」(現高見倶楽部)で久女の「花衣」主催の句会が開催された折詠まれた句で「ホトトギス」の巻頭を飾る。尚この楊貴妃桜、今はない。

<出典NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 中村 苑子 評>