【平成19年7〜9月掲載】


<平成19年9月掲載>

草市のあとかたもなき月夜かな  (渡辺水巴)  

  季語は「草市」、季節は秋です。別に「盆市」、「手向けの市」などの言い方もあります。つまり、この市で盆の行事に用いるいろいろな品を売ったわけです。東京では浅草の雷門、神田旅籠町、牛込神楽坂などの市は特に賑やかだったといいます。店を出すのは葛飾や葛西などの農家の人たちだから、盆支度のものに交って野の草花もかなり並べてあったのでしょう。売る人、買う人、どこから集まって来たのかと思うほどの昼間のはなやぎが、かき消すようになくなったあとの月夜。「あとかたもなき」に、がらんとしたむなしさがあります。水巴には、月の句に記憶に残るものが多いと山本健吉は言っています。

<出典:NHK学園近代俳句鑑賞 廣瀬直人 評>


<平成19年8月掲載>

夏の河赤き鉄鎖のはし浸る  (山口誓子)  

『炎昼』(昭和十三)所収。誓子の数ある秀作中特に有名なものの一つがこれ。折から興隆した新興俳句運動の、都会的かつ社会的な主題を詠もうとする行き方にも多大の示唆を与えた記念的な句である。
映画の一カットを思わせる即物的な河べりの風景だが、春でも秋でも冬でもなく、「夏の河」なので、「赤き鉄鎖」がなまなましく生きている。俳句の季感は新しい趣向の中にも鋭く働いていたのである。

<出典:「折々のうた三六五日」大岡 信 著(岩波書店)>


<平成19年7月掲載>

下下も下下下下の下国の涼しさよ  (一茶)    

 文化十年(1813)、一茶五十一歳の作。一茶はその前年に郷里信州に帰った。
郷里に戻った一茶は弟、仙六との間で遺産の分配についての取り決めをした。この句は「おく信濃に浴(ゆあみ)して」という前書きがある。山深い温泉場で夏を過ごしたのであろう。それにしても「下下も下下下下の下国」とは思い切って言ったものである。たしかに江戸にくらべれば風土は厳しく、経済的にも貧しく、文化らしいものも存在しない信州は下下の国に違いない。しかし、そう言い切るには複雑な心理状態があったものと言いたい。郷里への不満がこのような自虐的な発言となったので、皮肉屋一茶の郷里への愛憎とも言える。江戸を上上の国として安住する男ではなかったのである。下下の下国と言いながら、郷里信州は安住の地だったのである。
 この句の末尾の「涼しさよ」は、彼の住んだ江戸の陋巷(ろうこう)の蒸し暑さを思い出して、思わず口から出た讃美の言葉である。一茶は翌十一年、二十八歳の女きくを娶った。そして文致十年、六十五歳で没するまで信州に住んだ。

<出典:秀句鑑賞十二ヶ月 草間時彦 評>