名句鑑賞
【平成20年7〜9月掲載】 
 
 <平成20年9月掲載>
 けふの月長いすヽきを活けにけり (阿波野 青畝)
 
 
 
 今日の月は中秋名月のことである。その日に芒を切りに河原へ行った。月を祀るために飾る芒である。この句は昭和四年の作で、そのころ、青畝は夫人の病気療養のため仁川甲東園に転地していた。大阪市内と違って、閑静で、芒の生えている空き地も多い。
今夜の十五夜の晴天を約束するようによく晴れている。帰ってから縁に文机を持ち出して、芒を活け、団子を供えて、月の出を持つのだった。一句の調子がおおどかで心地がよい。口の中で誦しているうちに、月が上ってくるような気分になる。
私ははこの句について青畝に質問したことがある。
「どうして、〈長き芒〉ではないのですか」−失礼な質問とは思っていたが、どうしても作者に確認したかったのである。青畝はしばらく口の中でぼそぼそと呟いていた。「長いでないとあきまへんのや」−それが返事だった。青畝は〈長き芒〉のkiの鋭い響きがいやだったに違いない。声に出して、句調を確かめてみる。それが青畝の作句法なのである。
 
 <秀句鑑賞十二か月 草間時彦 著>
 
  

 
 <平成20年8月掲載>
 夜々の灯を重ねていつか秋簾  (桂 信子)
  
 
 毎日、おそくまで仕事をしている。読む、書く、調べる、そして選ぶ。暑い夏だ。昼のうちはガラス戸をしめてクーラーを入れているが、夜も更けると、戸を開ける。簾越しに夜風が部屋に吹き入ってくるのが気持ちよい。
 この簾を吊ったのは六月だった。新しく、青い簾だった。それから三ヵ月近くが過ぎたのだ。強い日差しと、雨や風にさらされて、簾は黄ばんできた。まがう方ない秋簾である。仕事にこもっていて気づかなかったが、簾を透いて見える庭も秋の気配である。夏は過ぎて秋になってしまったのだ。秋になったのは簾ばかりではないのだ。簾越しに吹き入る風も秋風である。
 俳句という詩型は、時間の経過を述べるには不便なのであるが、この句はさりげなく、夏が過ぎて秋になったことを述べている。叙法も巧みで、時の流るることの速さを句の裏に秘めている。というのも「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」というような古歌のこころを踏まえているからである。句集『花形』より。平成四年の作である。
 
 <秀句鑑賞十二か月 草間時彦 著>
 
 

 
 <平成20年7月掲載>
 愛されずして沖遠く泳ぐなり (藤田湘子)
  
 
  藤田湘子の若き日の傑作である。昭和二十六年の作である。
 にぎやかな夏の海辺である。若者たちが楽しそうに遊んでいる。海岸日傘の下に寝ころんでいる青年。浮き輪で子供と波打ちぎわに遊ぶ少女。たわいないおしゃべりを楽しむ人たちは、大胆な色の水着がよく似合う。そういうグループを離れて、一人だけ仲を泳いでいる青年がいる。達者な泳ぎで、人影の少ない沖をゆっくりと泳いでいる。
 その青年が作者の人間像と合致するのかどうかは分からない。この句に詠われているのは、青春そのものである。俳句は青春と無縁な存在ではなかったのである。
 この句が発表されたのは「馬酔木」で、昭和二十六年である。戦争が終わってから六年。まだ至るところに焦上が残っていた。俳句結社はどこも俳句復興に必死だった。新しい雑誌が各地に誕生した。老舗の「馬酔木」も雑詠欄に新人が集まった。藤田湘子は、すでに十九歳で新人中の新人として、抒情の豊かな秀作を発表していた。私も「馬酔木」の投句者だった。湘子のこの句を「馬酔木」誌上で見たときの感動を今も覚えている。
 
 <秀句鑑賞十二か月 草間時彦 著>
 
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