名句鑑賞
【平成22年10月〜12月掲載】
 
【平成22年12月掲載】 
 
ルノアルの女に毛糸編ませたし (阿波野青畝)
 
 
 
年末になるとカレンダーをもらったり、買ったりする。そのうちに一冊は泰西名画集があって、そういう画集には必ずといってよいほどルノアルの女性の図が一枚入っている。暖色糸の色をふんだんに使った豊満な裸体である。見ているうちに心が温まってくるような豊かさがある。
 この句は、某画伯がアトリエとして使っていた茶房での作だそうである。ルノアルの複製が壁に掛けてあったのだ。昭和二十四年の作。まだ世の中は物が不足していて、戦時中の名残の荒れた空気が残っていた。それだけにルノアルの女性像は感動的だったのである。
 さて、俳人としてその感動をどう詠むかが問題である。「ルノアルの女性像ある煖炉かな」では事実を述べただけで、作者の感動は読者に伝わらない。そこで作者は「毛糸編ませたし」と付けた。毛糸の温かさ、肌ざわりはまさにルノアルの女にふさわしい。それは作者が頭の中で考えたことではない。天から賜った恵みなのである。
 句集『春の鳶』のうちの句。季語は申すまでもなく〔毛糸編む」で、冬である。 
 
【出典:秀句十二か月 草間時彦 著】 
 
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【平成22年11月掲載】 
 
薄日とは美しきもの帰り花 (後藤夜半)
 
 
冬に入ってからしばらく暖かい日が続くとき、木の枝に花が咲くことがある。咲くといっても二輪か三輪、もう春が来たのかとだまされて咲く。それは桜や梅、山吹、木瓜などに多い。近寄ってよく見ると、色も淡いし、香りもない。はかなく、あわれな美しさである。
 作者が帰り花を見いだしたのは薄曇りの日だった。雲っていて、ときどき薄日の差す、冬のはじめらしい冷える日だった。その花は晴れた日の帰り花よりも一段とあわれだった。
 この句で問題となるのは「美しきもの」という詠嘆である。俳句のうちにその言葉を入れることはひとり合点になって、危ない。虚子は「美しき」という言葉をよく使い、さすがに安定しているが、その亜流はいけない。「美しき」というのはまったく難しい。
 さて、この句で後藤夜半は帰り花が美しいといっているのではない。薄日が美しいといっているのである。帰り花が美しいのは常識の範囲内である。薄日が美しいというのは常識の外である。初冬のうすら寒い日差しが美しいはずがない。薄日が美しいといったからこそ、この句は生きているのである。仮に「帰り花とは美しきもの薄日さす」では美しく
もなんともない。夜半の鍛えに鍛えた芸の力が生きている作である。 
 
【出典:秀句鑑賞十二か月 草間時彦 著】 
 
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【平成22年10月掲載】 
 
席立って席ひとつ空く秋の暮  (橋 關ホ)
 
 
 秋の暮れは日本の詩歌のうちで、もっとも重い題のひとつである。
秋の暮れに美を見いだしたのは藤原定家などの中世の歌人である。その伝統は歌人から連歌師に伝わり、連歌師から俳諧師へ、そして俳句の世界へとつながった。芭蕉にも「秋の暮」の句が多いことは、ご承知のとおりである。
 現代俳句で「秋の暮」をどう受け止めるかは、現代俳人に課せらた責務なのである。
掲出の句は現代の都会人の秋の暮れである。東京や大阪の、駅ごとの乗り降りの多い電車を想像すればよい。車窓はすでに暮れ始めている。電車は込み始めてきた。客のひとりが降りた。席が一つ、ぽっかりと空いた。立っている人は何人もいるのだが、腰を掛けようとしない。席は空いたまま電車は走ってゆく。車窓はますます暮れていって、ビルの灯が赤々と見える。作者の詠いたいものは都会人の空虚感である。席が一つぽっかりと空いているように、都会人の心もぽっかりとあいているのだ。

橋 關ホ(1903〜1992)は、関西俳壇の長老だった。孤独感の強い作家で、連句の名手でもあった。
 
【出典:秀句鑑賞十二か月 草間時彦】 
 
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