名句鑑賞
【平成23年1月〜3月号掲載分】
 
【平成23年3月掲載】  
 
春麻布永坂屋大兵衛かな  (久保田 万太郎)
 
  
 
 麻布は港区に包括されましたが昔は麻布区といった広大な地域です。永板は町名で現存しています。今は近くへ移転しましたが、その町に信州更科蕎麦を売る老舗があって、江戸時代から「永坂そば」と庶民に親しまれてきました。その店先に「布屋太兵衛」と掲げてある看板の古風な名前に作者は興をおぼえてすらすらと□をついて出た旬と思います。
 季語として「春」の一宇を添えただけですが、まさに春以外では納まらない趣があります。作者は、人名や地名をぴたりと句に織りこむ名手でしたが、わけてもこの句はリズミカルで、即興句としてたのしい愛誦性があります。
 
【出典:NHK学園近代俳句鑑賞 中村 苑子 評】 
 
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【平成23年2月掲載】  
 
雁ゆきてまた夕空をしたたらす (藤田湘子) 
 
 
雁は秋の季語であるが、「雁ゆく」となると「雁帰る」と同義で春の季語である。渡り鳥の雁が北へ帰るのが「雁ゆく」である。したがって、この句は春の句である。
 昭和二十年、戦争が終わった。今までは死んでいた芸術恬動がいっせいに目覚めた。俳句もそうだった。休刊、廃刊していた俳句雑誌が復活し、新しい雑誌も生まれた。それは、紙もなく、印刷所も焼亡した状態では困難なことだったが、幾多の新人が世に送り出された。「馬酔木」の藤田湘子(1926〜)もその一人である。
 この句は昭和二十六年の「馬酔木」四月号に発表された特別作品のうちの一句である。初心者だった私はそのみずみずしい抒情の豊かさに感動したことを覚えている。私も若かったが湘子は二十五歳だった。
 帰雁は中世の和歌のころからの重い題である。春の夕空を雁が帰ってゆくのである。「したたらす」とあるから、その夕空は冬の乾いた空ではない。しっとりと湿った夕空なのである。
 藤田湘子の若い日の作だが、五十年後の今でも鮮度を失っていない。
 
【出典:秀句鑑賞十二か月 草間時彦 著】 
 
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【平成23年1月掲載】 
 
夢に舞う能美しや冬籠り (松本 たかし)
 
 
 
松本たかしは宝生流能役者で名人とよばれた松本長(ながし)の子として生れました。当然家の業を継ぐ立場にあったようでしたが幼時から病身であったため、能役者となることを断念しまして療養中にたしなんだ俳句の道に興味を覚え、十八歳から高浜虚子に師事するようになりました。
 自然その作品には能役者らしい気品と格調の高さ、又悠揚せまらぬ呼吸などがあふれ、独特な芸の境地をひらいた作家であります。この句は家の業である能を諦めたものの、習い覚えていつか身についた舞の手ぶりが、ある夜の夢の中にでて来たのでしょう。袖をひるがえしてゆるやかに舞ってみずから陶酔するような気分になったのでしょうか、目覚めてそれが夢であったことを知ったさびしさ、もう生涯能舞台に立つことのない無念さに唇を噛むような思いが迫ったことと思います。すべてが冬籠りの夢だったという下五の季語もぴったりとはまった句であります。 
 
【出典:NHK学園近代俳句鑑賞 能村 登四郎 評】 
 
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