(平成17年4月〜6月掲載)


<平成17年6月掲載>  

乙鳥はまぶしき鳥となりにけり   (中村 草田男)

「乙鳥」は燕で、人問の軒先に巣作りをする親しい鳥です。春、南方より渡ってきて、秋に去ります。燕を見かけるのは春ですから「春」の季語になっていますが、この句は、句集『長子』の夏の部に編入されています。春先に見かけた燕が、やがて旬日を経て夏に向う日の光りを浴びて電線にとまっている姿など、まぶしくいっそうたくましくなった感じをうけるものです。直裁な表現に、わが町に来て成長をつづける燕への親密感がうたわれています。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞  原 裕>評


白藤や揺りやみしかばうすみどり   (芝 不器男)

一読して、白藤の長い房が日にかがやいている光景が思いうかびます。花房の揺れていたのが止まった状態を、作者は表現しているのにもかかわらず、まだ風に揺れ動いております藤の美しさが見えます。晩春の日の中に、甘い香りをただよわせて咲き垂れている藤の花は、新緑に染まつて薄い緑の色をおびているのです。この「うすみどり」の表わし方によりまして、白藤はかがやきを増し、しかも、晩春の季節がしっかりと作品ににじみ出ております。白藤の花は、紫の藤の花より遅く咲きますので、言葉だけでない写生の確かさがある句てす。季語は藤(春)

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞  福田 甲子雄>評


渓の樹の膚ながむれば夏来る   (村上 鬼城)

「夏来る」は立夏。まわりの木々も芽吹きの葉がやっと広がり始めた頃です。初案は「夏来る欅老樹の木膚かな」であったという自注があります。すっくと伸びた、太い灰白色の欅の大樹に鮮やかな夏の季感を見ているのです。しかも、その樹の近くにつきすぎず、「ながむれば」という表現によって、ある程度の距離をおきました。そこにおのずからこの樹の高さや太さが想像できます。何がどうだというような細かい描写など一切省いたところに土着の人のおおらかな心がよく出ています。昭和二十四年の作。作者六十四歳。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞  能村 登四郎>評


<平成17年5月掲載>  

白牡丹といふといへども紅ほのか  (高浜 虚子)

大正十四年の作。「いふといへども」という、ゆつたりとたゆたうような調べが、ほのかにうす紅をしずめたような大輪の白牡丹の清麗一豆満に照応して、実に絶妙の表現です。実は題詠の作。かつて見た白牡丹を脳裏に描きながら、むしろ目を瞑って観想裡に成った句かも知れません。同時作に「白牡丹いづこの紅のうつりたる」。季語・牡丹(夏)

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 森 澄雄 >評

かたまって薄き光の菫かな   (渡辺 水巴)

「鹿野山にて」という前書があります。千葉県木更津市近くの山です。木更津には、主宰する曲水吟社の有力な支社がありました。この句を読むと、誰しも、芭蕉の「山路来て何やらゆかし菫草」の句を思い出すでしょう。芭蕉の句よりも、「菫」そのものに焦点を絞って、その可憐さの中に潜む自然な生命力を捉えています。「かたまって」いながら、その色あいのあわあわとした印象を「薄き光の」という感覚による把握によって的確に捉えています。こんな繊細さが水巴らしい俳句の世界です。

<出典 NHN学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 廣瀬 直人> 評

外にも出よ触るるばかりに春の月  (中村 汀女)

戦後二十一年の作。戦争の重圧から解き放たれてはじめての春です。世相は戦争中にもましてきびしく、荒廃の極にありましたが、戦争のない解放感は、苦しい生活の中にも春月の美しさを讃える余裕がもてるようになりました。「外にも出よ」の呼びかけには、何年ぶりかで見た平和な春月への讃嘆があります。一句の声調がよろこびに弾み、それがそのまま快い緊張感となっています。したたるばかりの春月です。作者の豊かな代表句。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 野澤 節子> 評


<平成17年4月掲載>

毎年よ彼岸の入に寒いのは   (正岡子規)

 明治26年の春の彼岸の入りは寒かった。「冷えこむねえ。もうお彼岸だというのに」。上根岸の住居で子規は母親に言った。母親が答えた。「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは・・・」子規がふと気づくと、母の言葉は、そのまま五・七・五の俳句になっていた。子規はその言葉をそのまま句帳に書き留めた。子規は前年の25年11月に郷里松山に帰り、母・八重と妹・律を東京に連れて来ていた。だから、母にとっては東京での初めての彼岸だったのである。
この句の26年の時点では、子規は俳句に専念する気にはなっていなかったようである。日本新聞社に入社して月給15円をもらっていた。そして28年には日清戦争に従軍し、その帰国の途中、喀血した。このあたりから文筆で生活してゆく覚悟ができた。そして、文筆でも俳句の比重が重くなるのである。この句からは、既に晩年の子規の自在な境地がうかがえるのである。  

出典  <秀句鑑賞十二ヶ月  草間時彦>

咲き満ちてこぼるヽ花のなかりけり   (高濱虚子)

 桜の句、花の句は数多いが、その中で私がもっとも好きなのは、この句である。満開を讃える句は多いが、この句は桜の花以外のものはいっさい省いている。天候、晴天か曇天か、風が吹いているのか、そうでないのか。桜の樹の大きさ、樹齢、桜の種類、そういうことはいっさいいっていない。ただ「こぼるる花もなかりけり」だけなのである。
満開の桜の花の樹が立っている。作者とその樹との間の空間に散る花は見られない。無なのである。桜は鬱然と立っていて、作者を圧倒せんばかりである。作者は腰を落として、桜と対話する。しばらくの無言の刻が流れて、作者と桜は一体となる。そのとき、作者の心には桜の花が満ちているのである。満開の桜を讃える詩として、これ以上の作はないといえよう。昭和3年4月8日、鎌倉の作。これだけの傑作でありながら、虚子はこの句を「五百句」に収めていない。 

出典  <秀句鑑賞十二ヶ月  草間時彦>