<H18年1〜3月掲載>


<H18年3月掲載>

(つかまつ)る手に笛もなし古雛(ふるひいな) (松本 たかし)

 作者たかしの家は宝生流名人とよばれた名家ですから恐らく昔から伝えられた雛人形の由緒あるものが幾つかあったものでしょう。一見すると汚れた古雛のように見えるがよく見ると目鼻立ちの精巧さ、又着ている衣裳の織りのみごとさなど、とても今日のものには見られない豪華さがあります。しかし何といっても古雛のかなしさで五人囃子の笛方の人形も笛を吹くかまえはしているものの大切な道具の笛が失せてからもうずい分になります。そうした古雛を飾りながら古きよき時代をなつかしんでいるのでしょう。この句のよさはまず「仕る」という言葉を使っていることです。内裏雛は往昔の殿上人を模したものですから、「仕る」という敬語が用いられたのでしょうが、そのためにこの句が雅びな格調のたかいものになっていることを知らなければなりません。
出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 能村 登四郎>評


<H18年2月掲載>

春寒く咳入る人形遣いかな    (渡辺 水巴)

水巴は、明治十五年に東京の浅草で生れました。いわゆる下町情緒の中で育った人です。この句は、その下町の風土を背景にしています。浅草辺りの寄席の風景でしょう。「春寒」は立春後の寒さ。今、舞台では義太夫の調べに乗って操り人形の劇が演じられています。おそらくその人形遣いの中の一人が風邪を引いていて、演技の途中で急に咳き込んでいるのでしょう。表現のポイントは「咳入る」にあります。出はじめたら咳がとまらない。それでも演技はそのまま続けられています。さして広くない下町の寄席を想像すると、いっそう人なつかしさが感じられます。いかにも春先の気配にふさわしい味わいがあります。大正二年の作。
 <出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞  廣瀬直人


<H18年1月掲載>

大いなる初日据りぬ昇るなり   (原 石鼎)

初日の出、水平線が一線、明けの海と空を分けて引かれています。太陽が水平線から顔を出し、ゆっくりのぼりはじめます。半円からやがて全円に。そしていったん水平線上にゆったりと据り、やがて空に向ってのぼりはじめる。この問の荘厳な時空を表現しています。科学の眼といってよいほどに精密なうたいようながら、初日の神聖さを失わず、なつかしいものを仰ぎ見る思いがするのは、この太陽をうけとめ押しいただく作者の充実した感情をこの句からうけとるためにほかならない。「据りぬ」の表現が、初日の全円を水平線上にしっかリと釘付けしている。信仰にあつい神の国出雲に生まれ育った石鼎の初日に吸い寄せられたこころと科学する精神の眼が一体となった作品として知られています。
<出典: NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞  原 裕>評


旧景が闇を脱ぎゆく大旦  (中村 草田男)

旧年の闇に沈んだ街の景が、元日の暁光とともに闇を払い、再び浮上してくるようすをうたっています。旧景は見慣れた景で、街の景に限定されませんが、その旧景がそのまま元旦を転機として新しくなってゆく、よみがえりの思想があきらかです。この句の「闇」には夜の暗さとともに、人間界の諸悪や心の闇といったものも含まれていて、すべてのものが元旦の光りとともにぬぐい去られるとする感興がこの句にはよまれています。「大旦」は夜のひきあげから初日の光つをみとめるまでの時間的経過をあらわしています。
<出典: NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞  原 裕>評