<H18年4〜6月掲載分>


<H18年6月掲載>

水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 (阿波野 青畝

宇治平等院での作。池をへだてた向う側に、鳳凰堂の赤い建物が美しい。ふと気がつくと、水面に生えた藻のあいだを縫うようにして、一匹の蛇が泳いでいるのです。その鎌首は鳳凰堂を目ざしています。蛇が進むにつれて、水輪がしずかに広がり、赤い鳳凰堂の影がゆれるのです。内容のひじように鮮明な句ですが、この句では下五を「蛇の首」と名詞止めにした点に、多くの学ぶべき要素がふくまれています。普通の作者であったならば、ここはたいてい「蛇およぐ」「蛇すすむ」としてしまうでしょう。それで表現し得たと思いこんでしまうところです。しかし、それでは蛇のあの鎌首のイメージは浮かびません。「蛇の首」と言ったから、鎌首が見えてくるわけです。名詞止めによって鎌首のイメージを定着差させたのです。
 作者は、虚子から教えられた写生ということを、俳句の基本にしています。ですから、必然的に詠うべき対象を凝視の末出てきた言葉と言えるでしょう。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 藤田 湘子 評


<H18年5月掲載>

ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに  (森 澄雄) 

『鯉素(りそ)』(昭五二)所収。牡丹園の所見だろうか。たぶん白牡丹だろう、風でいっせいにこまかに身をゆする有様を、湯のようだと直覚的に惑じたのだ。中七以下のヤ行音の働きは、現実の花のゆらぎと、作者そして読者の心のゆらぎとを混ぜ合わしてしまう重要な触媒である。「湯のやうに」の奇抜な比喩が句の命で、虚子の「ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に」などとは違った現代俳句の工夫がそこにある。

<出典 「折々のうた」 大岡 信 著>


<H18年4月掲載>

方丈(ほうじょう)の大庇(おおびさし)より春の蝶  (高野 素十)

京都の龍安寺は妙心寺沢の禅刹で、有名な石庭は白砂の中に大小十五個の石を三群に配置して単純美の極致を表わしていますが、この句も、よくその気韻を伝えています。
 方丈の庇から、いま、静寂な枯山水の中に舞い降りてきた蝶に、作者は生命の象徴を感じたのです。方丈の庇を「大庇」と、大の宇を入れたことによって天地がひろがり、句柄を大きくしました。また、「蝶」だけでも春の季語なのですが、ことさらに「春の蝶」としたところに、おおらかな春の風趣が漂っています。この句は客観写生に徹した素十(すじゅう)にしては珍らしく主情を含んでおり、唐子も「単純な写生ではなく、龍安寺というものの精神をとらえ得た俳句である」と賞讃しています。昭和二年四月の吟行句を推敲した作です。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 中村 苑子 評