<H18年10月〜12月掲載>


<H18年12月掲載>

雪の日の浴身一指一趾愛し (橋本多佳子)

句集『命終』所収。昭和三十八年、入院が決ってからの作です。雪の日の入浴の、一指一趾を愛惜している多佳子です。雪がこの句のまたとない美しい背景になっています。ここには単なるナルシシズム(自己陶酔)を超えて、普遍的に生命への愛憐が漆み出ています。「雪はげし書き遺すこと何ぞ多き」の一句を遺して、多佳子は病院から帰ることなく五月二十九日逝きました。浴身の句は多佳子の最後の姿としてまことにふさわしく、多佳子は最後まで多佳子らしく在ったと思わされます。没後、句集『命終』が上梓されました。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 飯島 晴子 評>


<H18年11月掲載>

小春日や石を噛みゐる赤蜻蛉 (村上 鬼城)

犬正三年ごろの作。「小春日」が冬の季語。「赤蜻蛉」は秋の季語ですが初冬まで生き残った赤蜻蛉ということになります。初冬の小春日に生き残った赤蜻蛉がいた。というだけだったら恐らくありふれた句になったでしょう。何といってもこの句の眼目になるものは、中七の「石を噛みゐる」です。まさか蜻蛉が石を噛む筈はありません。小春日の石に廻をやすめている赤蜻蛉の姿がまるで石に噛みつくように必死にすがっているように見えたのでしょう。単に姿を写すばかりでなく一昆虫の生命までも写しているのです。秋が終ればやがて死んでしまう哀れな昆虫の生命の息づきを見のがしていない点にこの作家の魂が見られるではありませんか。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 能村 登四郎 評>


<H18年10月掲載>

秋風や模様のちがふ皿二つ  (原 石鼎)

家の食卓の上を吹きすぎる秋風をうたった日常吟であり、模様のちぐはぐな二つの皿を並べてわびしい生活なのですが、わびしさの中にも育つ夢があります。それが青春の持続というものでしょうか。二枚の皿の模様のちがいに、かえってそれぞれの個性を発見しています。そのちがいを一枚一枚たしかめ、それを一対として楽しんでいる風情があります。この句は盟友の飯田蛇笏によって石鼎一代の秀吟とされたものですが、この句には前書がついていて作句の事情を知ることができます。「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去って仮りの宿りをなす」、父との意見があわずに故郷を去る石鼎の淋しさがよく出ています。

<出典 NHK学園 俳句講座 近代俳句鑑賞 原 裕 評>