吟行記
【平成26年1月号】 
 
第113回 平成25年12月
森鴎外と小倉(北九州市小倉北区)
 
 12月の忘年吟行句会には家庭の事情で参加できなかった。皆は小倉の「森鷗外旧居」を吟行したようなので、小倉時代の鴎外について調べ、それを今月の吟行記の代わりとする。
 
森鴎外は明治32年6月から明治35年3月までの2年9カ月小倉に住んだ。その住居が小倉の繁華街、鍛冶町に残っている。旧居前の道は、車がやっと離合できるほどの狭い道で、飲み屋が途切れた所に、垣根の奥に木造瓦ぶき屋根の平屋建ての当時のままの家が、ひっそり建っでいる。屋敷の庭には小説「鶏」にでてくる百日紅や夾竹桃が植えられている。 
 

【小倉・鍛冶町の「旧居」】
 
鴎外は第12師団の軍医部長として小倉にやってきた。東京大学医学部を卒業して陸軍軍医となった彼は、4年間のドイツ留学後、東京で活躍していたところの突然の小倉転勤だったらしい。明らかに左遷で、【夕凪に袂すずしき常盤橋上りの汽車はなほ妬かりき】と悔しさを歌にして残している。
左遷の理由として挙げられるのが、①ドイツ留学のとき、上司の意向にそわず、独自の行動をとった。②「舞姫」のモデルとなったドイツ女性が、彼を追って来日して物議をかもした。③海軍中将男爵の長女と結婚したが、二年ももたず離婚している。④陸軍医学部の先輩を医学雑誌で批判した。⑤「小説」を次々に発表して文名があがった。 特に⑤は、軍の要職にいる者の行為ではないと顰蹙(ひんしゅく)をかって、これが決め手となって左遷となったらしい。鴎外37歳の時である。 
 
        
 
明治23年28歳の時に、ベルリンを舞台にした「舞姫」、続いてミュンヘンの「うたかたの記」、ドレスデンの「文づかひ」のドイツ留学を下地にした「ヨーロッパ三部作」を発表して、一躍文壇の寵児となっている。その彼が、小倉着任後、小説は書かず翻訳や評論を執筆するだけで、発表も福岡日日新聞(現・西日本新聞)だけで、目立たない活動に終始している。そのため鴎外の小倉時代は「遠流」「沈潜」の時代と言われているが、この後の彼の活躍をみると、小倉時代は飛躍のための充電期間の好機だったと言える。 
 
         
 
実際、軍医部長としての重要な任務である徴兵検査の立会いなどで、各地を訪ねるたびに、先賢の墓に参り、史跡や資料を見聞して、九州の歴史に関心を寄せ、福岡の「栗山大膳」熊本では「阿部一族」の作品が後に発表されている。また、鴎外は小倉で安国寺の住職と親しくなり、禅宗の唯識論の講義を受け、代わりにドイツ語を教えている。その頃住居を鍛冶町から京町に移していて、毎日のように行き来があったようだ。小倉時代に「圭角が取れ肝が練れてきた」と言われる一因になっている。 
 

【小倉・京町住居跡の碑】
 
周囲に与えた影響も大きく、当時の福岡日日新聞の六千号記念に寄稿を頼まれて、「我をして九州の富人たらしめば」を書き、「坑業家」たちに大きな警鐘を鳴らしている。感銘をうけた炭鉱王の安川敬一郎、松本健二郎父子は、明治専門学校(現・九州工業大学)を設立し、九州から多くの技術者を排出している。
「我をして・・・」の文の中に「利他の志」「自利の願い」という言葉がある。利他は労働者の財産形成を助け、社会保障制度を設け、衛生を普及することで、心ある人はその価値を認めるが、並の金持ちに説いても聞き入れてくれない。自利は美衣を身につけ、酒食にふけることもできる。官能だけ満足させておくと身体を損なう。それで富んでいる人の「自利の願い」に残されているのは、学術と学問だという。自分が金持ちなら、官能を満足させることに金を使わないでコレクションを考える。価値のあるものを収集して、公衆の視聴に供する。 また九州は歴史の宝庫だから、研究所を作って学者を集め、九州の歴史研究に貢献すると・・・自分が富人であれば、こうすると書かれている。 
 
  
【九州工業大学と旧松本邸「西日本工業倶楽部」】
 
このようなことを福岡日日新聞に書いたのには、鴎外が小倉着任後遭遇したことから、書かずにはおれなかったのだろう。当時一部の炭鉱王の目にあまる非常識ぶりや無法ぶりが話題になり、鴎外自身も直方駅で人力車に乗ろうとして車夫に相手にしてもらえなく、雨の中を歩いて仕事に出かけるという経験をしたようだ。肩書は師団の軍医部長だが、規定料金しか払わない軍人より、お札をばらまく炭鉱王の方が車夫にとって上客なのである。結果的には、「我をして・・」の寄稿文は、多くの人に感銘を与え、人を動かしている。 
 
小倉勤務の後、待望の第一師団軍医部長の辞令をもらって、明治35年3月小倉を発つことになるが、その送別会での挨拶が、有名な「洋学の盛衰を論ず」である。その間「即興詩人」の翻訳を完成させ、八幡製鉄所の開所式に参列し、大審院判事の長女・荒木志げと再婚するなど、公的にも私的にもだんだん充実した時間を持つようになる。
この5年後、陸軍軍医総監に昇進し、翌年文学博士にもなり、団子坂に構えた居宅「観潮楼」にて、名作を次々に生み出している。
 
    
【「観潮楼跡と後妻の「志げ」】
 
覗き見る鴎外旧居冬の雨      佳与子

時雨傘傾け路地にすれ違ふ    佳与子

鴎外の旧居冬雨降りはじめ      光子

地蔵堂探しあぐみし日短        光子

鴎外の橋に電飾年の暮       真理子

土運船ゆっくり動く冬の川      真理子

懐手して買い物について行き     勝利

欠伸して凹むマスクを見てしまひ   勝利 

救急車来てすれ違ふ路地師走     節子

大川に腰まで浸かり川普請       節子
 
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